千葉の澄み切った空と秋の日差しを背景に、ひとりのゴルファーが新たな物語を刻もうとしていた。東急セブンハンドレッドクラブ、距離6,697ヤード、パー72。渋野日向子は、静かな決意を胸にコースへ歩を進めた。
コースに立つと、空気がいつもより柔らかく、風も穏やかだった。早朝の光がフェアウェイを淡く染め、木々の葉がそっと揺れる。その中で、渋野の手はブレなかった。ティーグラウンドでクラブを丁寧に構え、深呼吸をひとつ。久しぶりに感じる「試合の緊張」と「ワクワク」が胸の奥を満たす。
1番ホール。8メートルのバーディーパット。渋野はラインを見極め、ゆっくりとストロークした。ボールはカップに吸い込まれ、歓声が静かな朝に解けていく。その笑顔は、まるで2019年のあの日、世界を魅了した「スマイルシンデレラ」のままだった。⛳😊
続く2番ホールでも、7メートルのロングパットを難なく沈める。渋野のグリーン感覚は、まるで眠っていた才能が目覚めたかのように冴え渡っていた。観客は息をのんで見守る。
しかし、ここに至るまでの道は平坦ではなかった。前週の「スタンレーレディスホンダ」で、渋野は予選落ちを経験した。5戦連続の苦境は、彼女の自信を揺さぶった。しかしその中で、彼女は答えを探していた。福岡の練習スタジオで受けた3時間のパットレッスン。動きを科学的に解析し、「手を使いすぎる動作」を抑え、体全体でストロークする意識へと修正した。
その修正が、この日のプレーに明らかな変化をもたらした。パットはひとつひとつが静かに、しかし確実に決まっていく。渋野はこう言った。「体で打つようになって、手先の不安が消えました」。
3番ホール。渋野は慎重にパーを刻み、無難に乗り切る。4番、5番ではフェアウェイで安定したショットを繰り返し、風に惑わされることもなかった。6番ではセカンドショットをピン横3メートルにせり寄せ、バーディーを奪取。観客からの拍手に応え、軽く手を上げて微笑む。その姿には、余裕と自信が見え隠れしていた。
インタビューで「この位置は久しぶりだから、どうしたらいいか分からない」と渋野は笑った。だがその言葉には、照れとともに強い意志が感じられた。「でも、チャンスはつかみたい」。
ファーストラウンドを終えて、スコアは7バーディー、1ボギーの66。日本ツアー出場68試合目にして、初の単独首位発進。数字が語るのは、長く積み重ねてきた努力と忍耐の重み。2021年「樋口久子 三菱電機レディス」以来、4年ぶりの優勝を狙う渋野にとって、今日のリーダーボードは新しい章の幕開けだった。
2位には佐久間朱莉。8バーディー、3ボギーの67で追走。「グリーンが硬くて風も強かったので、集中することができました」というコメントからは、強い精神力と冷静さが伝わってきた。
同じく2位タイには渡辺彩香。パワフルなドライバーショットでフェアウェイを支配し、しなやかなアプローチでスコアを伸ばした。若き佐久間とともに、大東建託勢の存在感を示した。
4位には菅楓華（2打差）がつけた。20歳という若さを感じさせない落ち着いたラウンド。ニトリ所属の彼女もまた、明日の上位進出を虎視眈々と狙っている。
一方、古江彩佳は73のスコアで53位と出遅れた。「グリーンに乗せるショットがうまくいかなかった」と悔しさを滲ませつつ、「明日はビッグスコアを狙いたい」と力強く宣言した。彼女の諦めない姿勢も、多くのファンを励ますだろう。
午後になると、秋の陽は傾き、コースには長い影が落ち始めた。渋野はクラブハウスを出る前、練習グリーンで数球を転がした。その姿は、勝利を祝うよりも、次の一打を慎重に見つめ直す職人のようだった。
「今までにないゴルフができた」。その言葉には、自信と手応え、そしてまだ旅の途中であることを認める謙虚さが混ざっていた。
ファンの間では、渋野の復活を信じる声が高まっていた。あの日、笑顔で世界を驚かせた「スマイルシンデレラ」が、もう一度その輝きを取り戻す。
渋野のスイングは柔らかく、しかし強く。ボールに伝わる意思は明白で、風が吹こうとも揺らがない。
キャディーとの何気ない会話、気さくな笑い声。ギャラリーに優しい表情で応える、その姿は、かつての彼女そのものだった。
ホールアウト後、記者会見で「優勝を意識していますか？」と問われると、渋野は一瞬言葉を選び、微笑んだ。「まだ1日目ですから。でも、4年ぶりにこの景色を見られて、本当にうれしいです」。
フェアウェイに立つその背中には、かつての栄光と、新たな挑戦の気配が混ざり合っていた。見上げる空は、以前よりも少し広く、少し鮮やかに感じられた。
ギャラリーの中には、目に涙を浮かべる者もあった。苦しみをともにしてきたファンにとって、この日のラウンドは一種の希望の証だった。
「前は勝ちたい気持ちばかりが先走っていました。でも今は、1打1打を楽しめています」。その言葉には、渋野の成長がにじんでいた。勝利だけを追うのではなく、一瞬一瞬を大切にする強さ。
夜、ホテルに戻った彼女は静かにストレッチをしながら今日のプレーを振り返った。スマートフォンには、ファンからの「笑顔が戻ってきたね」「最高のパットだった」といったメッセージが次々と届いていた。
しかし、彼女の思考はすでに次のラウンドへ。まだ何も終わっていない、ここからが本番だと。
勝利を意識するよりも、まずは楽しむことを選ぶ。そうすることで、渋野は再び頂点へ近づこうとしていた。
翌日の天気予報には、少し強めの風が告げられていた。しかし、それを恐れるどころか、彼女はこう言った。「風がある方が、自分の感覚を信じられる」。その言葉には、揺るぎない自信が映っていた。
フェアウェイの先には、歓喜の瞬間が待っているかもしれない。あの全英を制したあの日のように、渋野は笑顔でクラブを掲げる日を夢見ている。
そして、その夢は今、確かに現実へと近づきつつある。
静寂の中に響くスイングの音。秋の空を切り裂く白球の軌跡。
一打一打が刻む鼓動。渋野日向子という名が、再び日本ゴルフ界に強く刻まれていく。
彼女の物語は、まだ終わってはいない。だが、今日という日は、まぎれもなくその第二章の始まりだった。
千葉の風が髪を揺らし、拍手が遠くから包み込むように広がる。
渋野は帽子のつばをそっと押さえ、静かに微笑んだ。
「またこの景色を見られて、本当にうれしいです」。
その言葉は、努力の軌跡であり、希望の宣言だった。
そして、この日の渋野の笑顔は、誰よりもまぶしく輝いていた。
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